北の森と海にて (四)



!!
殺生丸はわずかなりんの匂いを捉えたが直ぐに掻き消えた。
だがそれで十分だった。すぐさま捉えた匂いの方角へと視線を滑らせた。
”そなたの大事なものと引き換えても?”
殺生丸はあのときそう問われて、無言で返した。
そして何もかも見透かしたような相手を一瞥すると踵を返したのだった。
”大事なもの””家宝などよりは少なくとも”
白い面の者は切れ長の目を薄くして微笑んだように見えた。
”私は父の残した物が何かを知りたかっただけだ”
”手に入らぬならそれまでのこと”
ほんの一瞬浮かんだ容を打ち消すようにふんと鼻を鳴らす。
”殺生丸さま”
打ち消すと今度は声がした気がして妖怪はいまいましそうに舌を打った。


真っ白に光りまぶしさに瞑っていた目を恐る恐る開けるとりんはぽかんとした。
丸く透明な球の中に自分は閉じ込められているのだとわかった。
周りの景色ははっきりと見えるため、身体が宙に浮いているのがよくわかる。
殺生丸や阿吽と飛んだ経験は少なくないりんだったが、浮遊しているのが頼りない。
その上どんどんと球体は自分を閉じ込めたまま、高く上がってゆこうとしていた。
「日名ちゃん!お願い、ここから出して!」
りんは声も強く訴えたが白い体の友人は答えない。
「日名ちゃん、りんは・・・りんを帰して?!」
日名と呼ばれるりんの遊び相手は拗ねたようにりんを見向きもしなかった。
りんはこのまま二度と帰れぬ予感を振り払おうと必死で耐えるしかなかった。


いつの間にか砂浜に夜が戻ろうとしていた。
冷たい風が森から降りてくる。獣の遠吼えが微かに届いた。
北の過酷な自然に生きる狐の類であろうと邪見は思った。
「日が暮れてしもうた・・・殺生丸さまはまだりんを見つけられないのかの・・・」
妖怪である彼にしても強まった冷気に身震いし、捜索をあきらめて洞穴へ戻ろうとした。
「ん?あ・あれは・・・!」
そのとき邪見の目に丸いものに包まれて空に浮かぶりんの姿が見つけられた。
「りん!!間違いない、あれはりんじゃ。」
慌てふためき、洞穴で待つ阿吽の元へ戻ろうと足を速めた。
「なんであんなことに・・・空の上では阿吽なしにはどうしようも無い。」
ぶつぶつ言いながらもりんの姿に不安で押しつぶされそうだった胸に安堵が浮かんだ。
何をこんなに心配してやっとるのかと自身に突っ込みながらも嬉しさを否定しきれないのだった。


その冷気は妖気を含んではいないにも拘わらず、殺生丸に切迫感を感じさせた。
大地から感じる霊気に似て、静かで広大な圧力であった。
日が落ちるにつれ森がざわざわと風の通り道を広げ、海も穏やかさを失ってゆく。
りんの匂いは消えてしまったが、その存在は傷ついた様子ではなく、いつものものだった。
今はなんらかの力によって捉えられていることには違いないが、この冷気は人の子には過酷である。
寧ろ戒めを解かれ、大地に戻した方がりんの命を削る結果となることは容易に予想できた。
りんを攫った者はその命を途絶えることを目的にしていない。
殺生丸に用があるのならば接触を図りそうなものであるのに逃げているかのようである。
”りん自身に用があるということか”
殺生丸が空を進もうとするのを風が阻み、冷気が森と海の双方から吹き上げてくる。
”あんなちっぽけな生き物に何の用がある”
そのちっぽけな生き物を追いながら殺生丸はりんを攫った理由を探ろうとしていた。
”捨て置けば良い””あれがどうなろうと私の知ったことではない”
そんな思いも浮かんだが彼はそうしようとはしなかった。
それよりも一向にりんの匂いは近寄らず、冷気が纏わりつくことに苛立っていった。

空を浮かぶりんも寒寒とした風景を眺めながら途方にくれていた。
どこへ行こうとしているのかも、りんをどうしたいのかもわからない。
ただひたすら「帰りたい」とだけ思って妖怪たちの姿を思い浮かべた。
「日名ちゃん・・・そんなに寂しかったのかな・・・」
「ええ、そうよ。」
ぽつんと言った独り言に返事があったのでりんは驚いた。
「日名ちゃん?!」
ぐるりと首を巡らせ声の主の姿を探す。
ぽうっと正面に浮かんだ姿はどこか寂しげに見えた。
「私ね、この森と海の子なの。」
「森と海の?」
「そう、森を護る木と海を護る水の精は一度だけ出合って恋をしたの。」
りんは友達が欲しいと言った日名の思いを知ろうと真剣に耳を傾けた。
「でもそれはいけないことだったのですって。」
「父さまと母さまには役目があったから。」
「諦めきれずにいたせいで海も森も荒れてしまったの。」
「大地に住まう神さまが年に一度逢うことを許すからそれぞれの役目に戻れとお約束をさせたの。」
「それで日名ちゃんが生まれたの?」
「私は父さまにも母さまにも逢えず、この砂浜の祠で過ごすことになった・・」
「年に一度だけ逢えるの?」
「ほんの少しね。でも触れてももらえない。声だけ。」
「そんな・・・」
「元々子が生まれることさえ在りえないことなのですって。私はこの世に一人きりなの。」
「・・・」
「ずっと誰か一緒に居てくれるものを探してたのよ。」
「・・・」
「りん、やっぱりだめ?」
切れ長の目は輝いて、まるで涙を溜めているかのようだった。
声も力なく、諦めがその表情から見てとれる。
りんはなんと言ってやれば良いのかわからなかった。
「りんは人だからすぐ死んでしまうよ・・・?」
「命の珠があるからそれは大丈夫なの。」
「命の珠?」
「この大地へ昔遊びにやってきた大妖怪がくれたの。」
「へえ、妖怪がそんなのくれたの。」
「私のお守り代わりにって母さまに頼まれて。」
「そうかあ、お母様は日名ちゃんが心配だものね。」
「そうかしら。」
「そりゃそうだよ、逢いたいだろうに。」
「・・・」
「日名ちゃん、神様にお願いできないかな?」
「え?何を」
「寂しいからもっと逢わせてって。」
「まさか、だって神様は姿さえめったにお見せにならないよ。」
「りん、一緒に居たい気持ちわかるよ、寂しいのも。だからお願いしよう!」
不思議な面持ちで日名はりんの顔をじっと見つめた。
何かがこのりんという少女から感じられる。温かい何か。
その温かさがりんに惹かれた理由だったのだろうかと日名は思った。