北の森と海にて (三)



”まっくら・・・なんにも見えない・・・”
りんはまるで墨の海にでも飛び込んだような心地だった。
目の前が暗闇に閉ざされただけでなく身体の所在がゆらゆらとあやふやで
冷たく軟らかな感触が身体に纏わり付き、息をしているのかわからない。
声を出そうとしても適わず、りんは次第に不安を募らせた。
”殺生丸さまー!””邪見さまー!””阿吽ー!”呼べど声になりはしない。
りんはもしかしたら自分は死んだのだろうかと思った。
”くすくす・・りんは死んでないよ””りんはあまり怖がらないねえ”
先ほどの声が再び聞こえるとりんはおかしなことだが少し安堵した。
その声の主がりんを今のこの状況に落とし入れたのだと予想できる。
なのに絶望を感じないのは、その声に無邪気な子供らしさが滲んでいたからだ。
”あなたはだれ?””りんはどうなったの?”
”待っててね、もう着くから”
りんは纏わり付いていたものからふっと解放されて景色が戻ったので眩暈がした。
そこは先ほどまでりんがいた岩穴などではなく白い砂の浜のようだった。
潮の香がりんの鼻を擽り、足元はさらさらとした砂にほんの少し埋まっていた。
「砂、あったかい・・・」そう呟いて声が出ることに気付きはっとした。
顔を上げて辺りを見回し、先ほどからの声の主を探した。
「りん、ここよ。眼の前にいるよ。」
確かに何も無かったはずの目前に少女の姿が在ったのでりんはたじろいだ。
その少女は真っ白な長い髪と透けるような肌をしていた。
着物も白く、身体全体がぼんやりと光っている。
年頃はりんと変わらなく見えたが切れ長の目に宿る瞳は人間ではないと告げていた。
「初めまして、りん。私は日名。逢えて嬉しいよ。」
「はじめまして。でもどうして私のことしってるの?」
「ふふ、ここに人が来るなんて珍しいもの。りんはどうして妖怪と一緒に居るの?」
「えっ、その、一緒に居たかったから・・」
「でも普通連れて行ってくれないよ。りんは人にしては変わってるのかな?」
「普通だと思うけど。日名ちゃんは妖怪なの?」
「まぁ、そんな呼ばれ方初めて!嬉しい。妖怪・・ではないわ。」
「人間の私と遊んで怒られない?」
「私を心配してくれるの?なるほどりんは変わってるね。」
「心配・・・してると思うの、邪見さまも。」
「ああ、あの小さな妖怪ね。大丈夫よ、固まって見えたかもしれないけど無事よ。」
「良かった。でもきっとりんを探して困ってると思うんだ。」
「そうだね、でもちょっとだけ遊びましょうよ。私、友達居ないから退屈なんだもの。」
「・・少し一緒に遊んだら、帰してくれる?」
「帰りたくなったらね。ふふ・・・」
りんはまた少し不安を感じたが、相手からは悪意は感じられないので観念した。
「何して遊ぶの?」



りんが姿を忽然と消してしまい、邪見はじっとしていられなかった。
「まさか結界の中であったというのに・・・ああああ、りん!無事でいてくれ〜!!」
おろおろと岩穴のなかをうろつく邪見の傍らで阿吽が悲しげにその様子を見つめている。
阿吽も何者かの気配を感じた次の瞬間には身体は動かなくなっていた。
動けたときにはもう大好きな少女の姿は影も形もなく、ぐる・・と悔しげに唸った。
気配はふっつりと途絶えていてどうすることもできず、邪見には主を待つしかなかった。
このことがどれほど主の怒りを買うかと思うと邪見は生きた心地がしなかった。
それでも邪見は主の帰還をただひたすらに祈り続けた。
りんを救い出せるのはやはり主以外には無かろうと思うからだ。
気ばかりが焦り、邪見は何度も何度も溜息を吐いた。
やがて空に明るみが差し、夜明けが近づくのを感じる頃、ようやく主が帰還した。
意外にも殺生丸は邪見の説明を聞いても驚いた風になく邪見は首を傾げた。
「あ、あの・・りんをお探しにならないので・・?」
冷たい一瞥が邪見に突き刺さり、主はもう既に事情を承知していることを悟った。
つまり一足先のりんの気配が結界を破って消えたのを知り、探して朝を迎えたのだ。
りんが消えた際の手がかりを邪見に問いに来たが案の定何も役に立たずといったわけだ。
邪見は頭を擦りつけるようにして陳謝した。
「も、申し訳ございません!殺生丸さま。」邪見の必死の謝罪を聞き流すようにして
殺生丸は阿吽にりんを空から捜索せよと命じると洞穴を去ろうと踵を返した。
邪見は慌てて付いて行こうとしたが、主は出口からさっと飛び去ってしまった。
阿吽と主の消えて行くのを見上げ、邪見は「私めも探しますですー!」と叫んだ。



「ねぇ、日名ちゃん。もしかしてもう朝だよね。」
「そうね、りん。眠いの?」
「もうそろそろ帰ってもいいかな・・?」
「まだほんのちょっとしか遊んでないじゃない!駄目よ。」
「でも一度帰らないと皆心配してるし。殺生丸さまのご用が終るまで遊んでていいか聞いてみるよ。」
「用が済んでりんが見つからなかったら、りんのこと放って帰ってしまうんじゃない?」
「え、ううん。まさか・・」
「そしたらずっとここで一緒に居られるわ。そうしなさいよ、りん。」
りんはさすがに慌てて「それは駄目!りんは帰りたい。」と日名に訴えた。
その困惑したりんを見つめて日名は切れ長の眼を細めると声を低くして言った。
「りんのこと好きになったの。ね、お願い。私の傍に居て。」
「日名ちゃんのことりんも好きだけど、ごめんなさい、ずっと一緒には居られないよ。」
「どうして?あの妖怪たちよりずっと大事にしてあげるよ。」
「りんは・・・」
「それに私なら、りんの命を延ばしてあげられる。」
「え?」
突然のことでりんは驚いて黙ったが、日名は静かに言葉を続けた。
「私ね、何でも願いを叶えることのできるものを持ってるの。」
「それで人のりんでも命を延ばして私とずっと一緒に居られるようにできるのよ。」
「ずっと友達が欲しかったの。ここには子供なんて私しか居ないから・・」
日名は寂しそうのそう言うのだがりんにはその申し出を受け入れることはできない。
返答に困っているりんに日名は更に言った。
「どうせこのまま妖怪と一緒に居てもりんはすぐ死んじゃうでしょ?」
その言葉はりんの胸につきりと棘のように刺さり、俄かにりんの顔は翳った。
「うん・・・それでもりんは殺生丸さまたちと居たいの。」
りんの答えは翳った顔とは逆にはっきりとしたものだった。
りんの声音に意思が揺るがないことを覚った日名の眼は明らかに色を変え、
忽ち鋭く光りを放ち出すとりんを射た。
「帰さないわ、りん。」
「日名ちゃん!?」
りんの叫びは攫われたときの闇とは間逆の光に包まれて再びかき消された。