北の森と海にて (二)



暗い海は何もかもを飲み込みそうな深さを湛えていた。
覆い隠そうとする空もまた厚い雲を連れ、押し迫るようである。
その雲間を獣の唸る声が響いた。
空を駆ける双頭の獣のものであった。
「あ、邪見さま。阿吽帰って来たよ!」
少女が嬉しそうに駆寄る砂浜に大きくていかにも恐ろしげな獣が降り立つ。
しかしそんな獣を少しも恐れず、少女はよしよしと飼い犬を撫でるように摩った。
「ご苦労様、阿吽。」
獣は目を細め、ぐるぐると喉を鳴らし甘える様は飼い犬さながらである。
主の騎獣である阿吽は忠実で見てくれに反してとても穏やかな性質をしている。
そしてりんや邪見にとってはかわいい旅の連れ合いであった。
いざとなれば双頭の口からは焔を吐き、彼らを護ってくれる心強さもある。
「殺生丸さまのお留守はやはりこやつが居らんと不安じゃしの〜!」
「そうだね、居てくれると頼もしいよねー。阿吽、よろしくね〜。」
「呑気に笑うな。殺生丸さまがくれぐれもと念を押すほど危険な処なのじゃからな!」
「うん、わかってるよ。でも殺生丸さまのご用ってどれくらいかかるのかな?」
「さあのう?早く戻って来られるのを祈るしかあるまい。」
「それでさっきの洞穴で待ってるの?邪見さま。」
「そうじゃな、もう暗くなってきたし、移動するとしよう。」
「はあ〜い。」


西国には並ぶものない妖怪である主はこの場に不在であった。
主の従者たちは言いつけどうり決まった場所に留まり、帰りを待つことになった。
偵察に行かせていた阿吽も呼び戻し、その夜は火を起こして早めに休むこととした。
生来順応の良い少女は土地が変わってもすぐにことりと眠りに落ちて行った。
北の夜は文字通り真っ暗な闇、近くの海は不気味なうねりとともに冷たい風を運び込む。
生きるものは他に何一つないかのような闇が辺りを支配しているようであった。
見張り番の邪見もこくりこくりと舟を漕ぎだすと静寂がしっとりと湿った空気に染み渡った。

”珍しい客人””人の子供””くすくす・・”
”遊ぼう、りん””起きて、こちらへおいで”

ふと目が覚めたりんは周囲をきょろきょろと見まわした。
しかし様子に変わりなどなく、違いは邪見が居眠りしていることくらいであった。
”今、誰か呼んだような気がしたけど、夢見たのかな?”
りんはふうと小さく溜息をつくとまた横になって目を閉じた。
”りん””眠るなんてあとでいいから、遊ぼうよ”
がばっと起き上がると、りんは目を瞬いた。
”誰?”りんは先ほどよりも慎重に辺りを観察しながら声の主を探った。
”りん””ここよ、ここ”
”やっぱり呼んでる。誰が呼んでるの?”
りんは声に出したつもりだが、静寂にかき消されたように発せらてはいなかった。
”声が出ない?!”りんは驚き、邪見や阿吽を見るとどちらも固まったまま動かない。
よく見ると、舟を漕いでいた邪見も阿吽も色を失い、まるで石のようである。
”?!邪見さま!阿吽!”
”りん””さあ、おいで”
りんはいやだと叫ぼうとしたが、声は出ず、目を開けたまま真っ暗な闇に飲み込まれた。
ぱちっと火の粉が音を立て、邪見がはっと目を覚ました。
どれほど経っていたのか、火はほとんど消えかかっており、洞穴には冷気が漂っている。
阿吽は死んだように眠っている。だが邪見が驚愕したのはそのことではなかった。
傍らで眠っていた少女が忽然と姿を消している、その事実であった。
「・・・りん!?りん、ど、ど、どこへ行ったんじゃ!!り〜ん!!」
邪見の声は洞穴に木霊したが、ぷすりと消えた火とともに静寂が耳を打つばかりであった。


暗い海辺にぼおっと光る松明のような明かりがおそらく遠めでも見えるであろう。
だがそれはそんな夜目を助ける光りなどではなく、存在を知らしめるものであった。
それは冷たくも温かくも感じられ、発する者の纏う雰囲気に似て静かであった。
豊かな毛皮を携えて静かに光り浮かび上がる姿は殺生丸である。
冷たい風に長い髪を嬲られたまま、じっと前を見据えて佇んでいた。
やがてその前方からも一筋の光が生じた。
昼間であればそこに小さな岩屋が見とめられたはずである。
妖怪である殺生丸にはそれが確認できたが、それ以外には難しい。
岩屋から生じた光りは見る間にある形にと変化していった。
白銀の妖怪の髪に似たその姿は美しい女性を象っていく。
だが銀というよりは真白な姿の面には黒い切れ長の目が浮かぶだけで口も鼻もない。
”よう参られた””何百年振りかの客人じゃ”
「ここに父の残したものがあると訊いた。」
”父とは・・・そなたと似たもののけ、闘牙・・・と言ったか?”
「ここに一度だけ立ち寄ったことがあるはずだ。」
”どこから訊いた”
「家宝が一つ行方知れずとのことだ。」
”こちらへ隠匿の疑いでももたれたか?それはおかしや”
「何をここへ置いて行ったのだ、父は。」
”あいにくわれのもとには無い”
「ではどこに在る。」
”くっくっくっく・・・父と似るは姿ばかり””おかしや”
「愚弄するか。」
”なんの、急かすな。あれは闘牙がとあるところへ沈めた”
「沈めただと?」
”そう、もはや取り戻す事叶わぬ”
「なんとしてもか。」
”そうじゃのう、そなたの大事なものと引き換えても?”
「・・・」
女は細い目を更に細め楽しそうに笑った。
暗く境界の定かで無い海と空は一層冷たい風を浜辺に送り、殺生丸に吹きつけていった。