北の森と海にて (一)



そこは古くより住む人もほとんどない広陵な地だった。
際北に位置し、冬の極寒は大抵の生物を排除してしまう。
植物は白い幹の白樺、銀杏、ポプラ等の独特の種が棲息する。
開拓された今でこそ安住もできるようになった大地であるが
昔はひっそりと限られた種のみが住まう閉ざされた世界であった。
北の海に囲まれた大いなる自然を戴く大地、現在の北海道である。
妖怪の跋扈する時代、踏み荒らす者なき場所であるが故に
深層たる森を塒(ねぐら)とする輩はその地に安住していた。

遠くに聞こえるのは潮騒、風は潮の香とともに冷気を伝えている。
海から少し離れた場所を行くのは珍しい旅の一行であった。
そのうちの一人、十二、三ほどの少女が感嘆の声を上げた。
「ここはほんとに涼しいね〜!邪見さま」
「当たり前じゃわい、こんなに北に来ておるのじゃからの。」
「夏なのにこんなに涼しいのってりん初めてだよ。」
「まあ、そうじゃろうなあ。わしとてこんな北は初めてじゃ。」
「邪見さまも?!一緒だね。」
「おまえと一緒にすなっ。!そうじゃ、りん。」
「なあに、邪見さま。」
「冬ともなればここらではおまえなど凍ってしまうのじゃぞ。」
「?凍るって、どうなるの?」
「なんじゃ、知らんのか?!」
「うーんと寒いと水が固くなる、あれみたいに?」
「そうじゃ。人は凍ってしまえばおしまいじゃ。」
「かちかちになって死んじゃうの?」
「心の臓も止まってしまうからのう!」
「いや、怖い!」
「おまえが言う事きかぬとここへ置いていってしまうぞ〜!」
りんが青ざめ、震え出すのを邪見は面白がっている。
「ひっひっ・・・ぐげっ!!?」
「あ、邪見さま!」
少女が叫ぶと小柄な緑色の妖怪は宙へと高く舞いあがった。
少し離れて歩んでいた一行の主人に蹴り飛ばされたのである。
「殺生丸さま、りんを置いていかないでね。」
「・・・逸れるな。」
殺生丸と呼ばれた一行の主は豊かな白銀の毛皮を肩にかけ、上質な着物を纏っている。
長い銀の髪を背から足元近くまで垂らし、背も高く堂々としている。
帯刀し簡易な鎧姿であるものの、端正で女と見紛うほどの美貌であった。
その相貌にはまるで獣の爪痕のような朱の線が二本ずつ頬骨から口元へと履かれていた。
よく見れば目も深い金色で、身体中から淡い光とともに漂う気配は只者でないと知れる。
彼はまだ歳若くも強大な妖怪であり、先ほど蹴り飛ばした邪見という従者とりんを連れに旅をしていた。
りんはどこから見てもごく普通の人間の少女である。
殺生丸を慕う風ではあるが、何ゆえ一行に加わっているのかはわからない。
「寒いときは早めに言え。」
「はい、殺生丸さま。大丈夫だよ!」
にこりと幸せそうに微笑む様も、子を気遣う妖怪の口ぶりも奇妙な光景であった。
邪見が蹴られたのは少女を怯えさせた所以であり、そんな待遇も日常である。
すなわちこの少女は従者よりも弱き故か、主から大事にされているのだ。
おそろしいほどの気配を漂わせる殺生丸であるが、その少女に向ける眼差しは穏やかだ。
邪見も口やかましく一見りんに意地悪なようではあるが、事実は反対でりんも懐いていた。
よろよろと戻ってきた邪見は恨みがましい目を主に送りつつ尋ねた。
「で、殺生丸さま、これからどうなさるおつもりで・・・?」
「・・・夜を待つ。」
「それでは我らはねぐらを探さねばなりませんな。」
「りんはお留守番だね。夜お出かけになるんなら。」
「当たり前じゃ、ここらは夜ともなれば寒さも増すのじゃぞ。」
「うん。それに夜はりん何も見えないし。」
「まったく不便じゃな、おまえは。」
「邪見」
「は、はい!すぐにねぐらとなる場所を探してまいります。」
主のひと睨みで背筋を伸ばし、邪見はそそくさとその場を後にした。
「夜はすごく寒いんだね。殺生丸さまは大丈夫?」
愚かなことに妖怪を気遣う少女を一瞥すると
「日が落ちたら私か邪見の傍を離れるな。」
「はい。」
初めての土地であり、ただの人間である少女にはこの地の過酷さなど計り知れない。
だが殺生丸のような者でさえも、この大地を覆う冷気と妖気を侮り難く感じた。
ある目的のためと少女を夏の暑さから遠ざけてやるためにと訪れた土地であったが
纏わりつく予感に少女を伴ったことを些か短慮であったかと殺生丸は柳眉を顰めた。