(3)煩悶  



 久し振りに向き合ってくれた殺生丸に嬉しさが込み上げるりんでした。
 どういうわけか騒がしい胸も、わくわくとしたものに震えています。
 上気した頬と幸せそうな笑顔は誰が見ても蕩けそうな素晴らしいものでした。
 ですが目を反らし続けてきた殺生丸にとっては刺激が強かったのかもしれません。
 固まって動けない殺生丸に気付いたりんはそろっと近づいてきました。
 「殺生丸さま・・・どうしたの?」
 心配そうな瞳は背の高い妖怪を下から見上げて問いかけます。
 「・・りん、動くな。」
 声はいつもの冷静なものより少しばかり弱弱しかったかもしれません。
 ぴたりと差し伸べていた手を止めてりんはその場に固まりました。
 その様子に少々安堵したように殺生丸は軽く息を吐きました。
 呼吸をするのも忘れるほど見惚れていたことにこの時やっと気付きました。
 あまりに不甲斐のない自分に殺生丸は腹立たしささえ感じました。
 ですが、このまま近寄られて触れられでもしたらどうなるかわからない、
 そう思った殺生丸は結局くるりと背を向けてしまいました。
 背中越しにりんに「・・行くぞ。」と言うのが精一杯の有様です。
 そんな内心に気付かないりんは「はい。」と元気な返事をすると駆寄りました。
 ところが偶然足元に絡まった草によろけてしまい、りんは「あ」と小さな声を漏らすと
 転びそうになり、つい目の前にあった殺生丸の毛皮を掴んでしまいました。
 そのおかげで転ばなかったのでほっとしたのも束の間、りんは顔を曇らせました。
 「ごめんなさい!殺生丸さまのこと掴んだりして。」
 本当に済まなそうにりんは頭を下げて謝りました。
 深く下げた頭をそっと上げると殺生丸はじっと背を向けたままでした。
 「?!どうしよう・・・痛かったの!?」
 りんは狼狽し、殺生丸の正面から謝ろうと動かない妖怪の前に走り出ました。
 「殺生丸さま、許して!もうしませんから!」
 りんが必死の面持ちで妖怪を見上げると殺生丸は苦しげに目を閉じていました。
 「い、痛かったの?ああ、ごめんなさい!りん、どうしよう・・・」
 おろおろとするりんに「・・何でも無い。謝るな。」と声がかかりました。
 殺生丸は目を開けてりんを見下ろしていました。とても苦しそうに。
 「殺生丸さま?」
 りんの触れた手が殺生丸を動けなくなくしていたのです。
 まるで雷撃に打たれたかのような衝撃だったからです。
 そしてりんのことを避けていた原因に気付いてしまいました。
 りんは人の娘です。触れたことはありますが、それもほんの僅かのこと。
 力加減がわからないのです。柔らかで掴み所なく、子供の頃はよく帯を摘みました。
 どこをどう触れても傷つけてしまいそうで困惑するのです。
 毒を顰めた爪が薄い皮膚を破いたり、腕も折りそうで触れるのが厄介でした。
 女は知っていてもこんな気持ちは初めてで、それも躊躇に拍車をかけていました。
 少女はほんの僅かのことで死んでしまう、それがこれほど恐ろしいとは。
 妖怪は自分の血に誇りを持っていました。そして人を蔑んできました。
 ですが、この怖れを抱かせた少女が人であることは少なからず衝撃でした。
 私を怖れさせ、私を怖れない、それがりんだと改めて思い知らされました。
 そう、おそらく傷つけられようが、無理矢理に想いを遂げようが、
 たとえ今すぐに死をもたらされたとしても。
 りんは殺生丸を怖れることは決してないのです、だからこそりんなのでした。
 それは確信でした。誰にも説明のしようのない事実です。
 まだその説明のつかない事実を受け止めきれないでいると気付いたのでした。
 りんはただ苦しそうに見える妖怪が気がかりで瞳を揺らすのです。
 それがまた切なさを呼ぶとは思わず、りんは「殺生丸さま」と名を呟きました。
 そんなりんを前に今自分が岐路に立っていると思わずにおれない殺生丸でした。
 「りん」
 「はい」
 「私は・・」
 何を言おうとしているのか、殺生丸はそれすらもわからずにいました。
 ただ疼く胸と指先を秘めてりんの瞳を見つめるのでした。