トロイメライ〜小さな約束〜9



昔、あの梯子の途中で自分が目を開けるとそこに炎山がいた。
怖さを一瞬で忘れ、目の前の炎山の瞳に思わす見惚れていた。
そのときも何も考えられなかった。ただただ見つめ返しただけで。
後になってその深い湖のような瞳を綺麗だと感じたのだった。
”あのときとおんなじ・・・”
言葉を失ったように自分を見ているやいとに炎山は”あぁ、まただ・・”と思う。
彼が何度かやいとに対して口にしている『誘惑』は別に誇張でもお世辞でもない。
見つめられてどうしようもなくなる。これで何度目だろうな、と炎山は考えていた。
こんな場所で紳士のとる行動ではない。しかし人目などどうでもいいとも思える。
”あのときのように目を閉じてくれれば・・”と願うが、やいとはそうしなかった。

「そんなに見つめられると、困るな・・」
「ぇ・・?あ、ごめんなさい!私ぼんやりして。」
「目を閉じてくれないかと期待したんだが?」
「!?そっそんなこと・・」

視線は俯いて落とされ、誘惑するつもりは確かにないらしいが、焦らされたようなものだった。
やいとは恥ずかしそうに口元を両手で覆っていた。炎山はその手を解いてしまいたくなる。
しかしなんとかその欲望に打ち勝って、努めて静かに訊ねた。

「じゃあどうして見つめていたんだ?」
「あ、あの・・・わ、笑わない?」
「笑わない。約束する。」
「私あなたの眼を見てると・・何にも考えられなくなるの、あの梯子の時から。」
「M−1の時だな。」
「見惚れちゃって・・わ、私ね、それでどうしてだかずっとわからなかったんだけど・・」
「今はわかるのか?」
「あ・あの、ね・・私・・あなたのこと・・・」


「失礼致します、炎山様。伊集院会長から至急来られるようにと・・」

彼らから少し離れた場所から声を掛けたのは炎山の部下の一人だった。
驚いて炎山の陰に隠れたやいとは真っ赤になって彼の背中を掴んでいた。少し手が震えている。
あと少し待てなかったのかと内心かなり落胆していたが、仕方なく炎山は部下に向き直り尋ねた。

「・・親父が来ているのか。」
「はい、お話がおありだそうです。」
「そんなことは何も聞いてないぞ。」
「申し訳ございません・・」

部下を脅してまで自分にしたいという話が面白いとは到底思えない。炎山はうんざりした。
彼と父親との間には確執があるのだ。炎山の険しい表情を見てやいとはそのことを感じ取った。
怖い顔になって黙っている炎山にそっと声を掛けてみた。

「炎山・・お父様のところへ行ってあげて?」
「しかし・・・」
「どうしてもしたいお話がおありなんでしょう?」

やいとは炎山の父親を知らなかった。しかし親子であるならば仲違いは辛いだろう。
できることなら力になりたかった。どうすればよいのかはわからずともそう思った。
彼女の気遣いは炎山にも伝わり、この場はその気持ちを汲んで父親に会うことにした。

「すまない・・また連絡する。」
「えぇ、またね、炎山。楽しかったわ。」

名残を惜しむように炎山はやいとの手を一度握ってその場を離れた。


炎山が父親の待つというホールではない別室に連れて来られるとドアの前で立ち止まった。
そして彼を案内した部下に向かって「父が無理を言ったのだろう、すまない。」と一言告げた。
部下の青年ははっと顔を上げ、「申し訳ありません、炎山様。」とだけ言って深く頭を下げた。
それ以上は何も言わずに、炎山はドアを開けて中に入っていった。
すると待ちかねたように、彼を見るなり「遅かったな。」と炎山の父は呟いた。
父親は口数少なく命令的で、物事を自分中心で進めていく、そんな印象を炎山は昔から持つ。
お互いの性格のせいもあったのだが、彼らの会話はいつも肉親というにはあまりに事務的だった。
直接話さねばならないこととは何なのか、炎山は予想が付かない分身構えて父の話を待った。

「結婚・・?自分がですか!?」
「莫迦な質問をするな。すぐにではない。そのつもりでいろと言ったのだ。」
「縁談でしたらお断りします。」
「結婚は恋愛などとは別問題だ。もうおまえにも分かるだろう。」
「ご自分の経験ですか、それは。」
「おまえの部下にようやく今日の予定を聞き出したのだ、手間を掛けさせるな。」
「お断りすると申し上げています。」
「聞かん。相手はおまえの母親の妹の娘、従姉妹に当る。知っているな。」
「まさか・・・何故ですか?!」
「おまえの母親ならきっと喜ぶはずだ。」
「そんなこと在り得ない!」

炎山は叫ぶように言った。従姉妹は良く知っている。しかしどこにも結婚の理由が見当たらない。
父親は炎山に理由を何も説明しようとはしなかった。有無を言わせず、彼を残して部屋を出て行った。


炎山と別れたやいとはもう夜会を辞そうとしてホールを横切っていたときに呼び止められた。
呼び止めたのはさっきの炎山の部下である青年で、やいとは不思議に思った。
炎山を呼び出したことを詫びた後、彼は思わぬことをやいとに告げた。
「炎山様を信じていてください。きっとなんとかなさると思います。」
やいとはその言葉の意味を尋ねたかったが、彼はさっと逃げるように去っていった。

「・・何か・・あるのね?これから・・・」

炎山の身に何事か起こるのだろうかと不安になる、そしてそれがやいとにも無関係でないのだ。
でなければ彼の部下はわざわざそんなことを告げに来るはずもないと思った。

その夜、寝室の枕元でMPを見つめているやいとの元に炎山から連絡は無かった。
自分から連絡してもいいのだが、きっと彼はそれどころではないのかもしれない。
寂しさを感じたやいとは時計を取り出して枕元で久しぶりに「トロイメライ」を聞きながら眠りについた。

夢を見ているんだわ・・・やいとは昔初めて逢ったときの少女の姿だった。
・・・懐かしい・・あれは・・・炎山・・・あぁやっと顔が思い出せた・・
幼い彼はやいとに優しかった母親の話を聞かせてくれた。とても好きだったと。
やいとも母親の話をした。同じように好きだったと、自分の幸せを望んでいたと。
微笑む幼い頃の炎山は可愛らしくて、やいとは思わず抱きしめたくなった。
私にもできることがあるかしら・・・いつでも私に優しいあなたに・・・


翌日やいとは以前からの予定にあった知人のお見舞いへと、とある病院へ足を運んだ。
面会後、中庭で一人の紳士が佇むのをふと目にした、そして何故かその光景が気になった。
初老の紳士は植えられた花の前でとても寂しそうに見えた、それで思わず傍に近付いた。
彼の見つめている花壇の花はやいとの母が好きだった花で、そのことに少し驚いた。

「お好きなんですか?その花・・」
「・・・いや、花などに興味はない。」

やいとはまた驚いた。答えにもそうだが、振り向いた紳士の姿がどこか懐かしいと感じたからだ。

「じっと見ておられたから・・その花私の母が好きだったんです。」
「女は好きだな。こんなものが。」
「あなたの想う方もこのお花をお好きなんですね?」
「何故そう思う?」
「そうでなければ『女』とはおっしゃらないのじゃないかって・・」
「見かけより頭が良いな。・・少しその『女』の若い頃に似ている。」
「まぁ、私も貴方を何故か懐かしいと感じたんです。不思議ですね。」

初老の紳士はやいとをじっと見つめた。背の高い彼は話し方が炎山に少し似ていると思った。

「その方にお逢いしたかったんですね。」
「・・そうだ、まだなのかと・・」
「ここで待ち合わせでしたの?」
「いや・・いつどこで逢えるかはわからんのだ。」
「・・?」
「お嬢さんが『迎え』かと思った。・・どうやらもう少し待たされるようだ。」
「お付き合いしましょうか?お迎えの方がいらっしゃるまで。」
「いや、いい。・・お嬢さんはこの花の名を知っているかね?」
「”ふうりんそう”って言うんですよ。”カンパニュラ”とも。花言葉は『感謝』です。」
「・・・ありがとう、おじょうさん。失礼・・・」
「あっあのっ!きっとその方、貴方のことご心配してます、お元気でいらしてくださいね?!」
「・・・・」

紳士はやいとを振り向いて、もう一度その顔を見つめたが何も言わずに去っていった。
やいとは青白い表情の彼が何故か心配で胸が騒いだ。どうしてなのかはわからなかった。
病院を後にするとトロイメライが流れた。急いで開いたメールにやいとは呆然とした。

「しばらく逢えないかもしれない。待っていてくれ。」

その文面をじっと見つめていたやいとは涙が一粒頬を伝うのを感じた。
何かあったのだとわかる。だから「待ってるわ」とだけ返事をした。
力になりたいなんて、思い上がりかもしれないとやいとは自分の無力さを痛感する。
優しい彼が心配させまいとしてくれているのはわかるがそれよりも事情を打ち明けて欲しかった。
今までどうしてこんなに護られてばかりで気付かなかったんだろう?とやいとは歯噛みした。
何か炎山に困ったことがあるのなら、何か、なんでもいいからしたい、やいとはそう思った。


数日後、大嫌いな夜会にやいとは自らやって来ていた。
今日は会いたい人物を探して、あちこち探して回った。
ようやく見つけた人は色んなゴシップを収集していることで有名な婦人だった。
当たり障りのない挨拶をして彼女に近付くと、やいとは聞きたいことをそっと尋ねてみた。

「あなたも気になってるのね・・・ここではなんだからこっちいらっしゃい!」

拍子抜けするくらいあっけなく情報が飛び込んできて、やいとは軽く眩暈がした。
今まで噂では嫌っていた人物だったのだが、会ってみると気さくなおばさんだったのも意外だった。

「ここだけの話なんだけどね?伊集院の会長さんは重いご病気らしくてね?それで急いだという噂よ〜!」
「あ、あの、急いだというのは・・?」
「え!?伊集院炎山の婚約の話ではないの?聞きたかったのは。」
「婚約!?炎山が・・?」
「まだ発表されてないけど、時間の問題みたいよ。それであちこちの女性陣が嘆き騒いでるの。」
「そっそうですか。私知らなくて・・;」
「まぁ、彼のファンにしては情報が遅いわよ!会長のこと考えたら婚約も仕方ないわよね。」
「そう・・ですね・・」
「まだ若いんだしちょっとお気の毒・・でも会長さんも生きてるうちに安心したいのでしょうし。」
「お父様のご病気ってそんなに良くないんですか?」
「・・・もうあと僅かって話・・ここだけの話よ〜〜!?」

やいとは知らなかった。そんな立ち入った話はナビでも調べられない。噂好きの婦人に感謝した。
”お父様がご病気・・・それじゃあ炎山心配でしょうね・・”
”婚約・・・って・・それであのとき私に・・”
彼の部下が言った言葉の意味に思い当たって、やいとは少し頬を染めた。
”つまりあの人、私のこと炎山の・・恋人だとカン違いしたってことかしら?”
それとも炎山がそんな風に彼に自分のことを伝えていたのだろうかと思うと気恥ずかしい。
しかしそんなことよりも、炎山のことが心配ですぐにまた重苦しい気持ちに戻った。
”どうしよう?私なんかに何もできそうもない・・?・・・だけどじっと待ってるのも辛いし・・”
次の行動をどうすべきかとやいとは思い悩んだ。そしてナビのグライドに一つ頼みごとをした。

グライドはすぐに手を尽くしてくれた。やいとは彼の働きに感謝した。
「私って・・・あなたにも頼ってばかりね、グライド・・」
「そんなことありませんよ。やいと様。元気を出してください、私はあなたのための存在です。」
「ありがとう。とても心強いわ。」

グライドに調べてもらったのは伊集院会長に関してだった。彼は自宅療養しているとのことだ。
しかし定期的に先日の病院に検査入院しているらしい。そのときやいとはあの紳士のことを思い出した。
「あの病院に古くから懇意な医師が居られるそうです。亡くなった奥様も昔治療されたことがあるとか。」
「そうなの・・・どこか懐かしいと思ったんだけど、もしかしたらあの方が・・・」
「おそらく。ご病気に関しては病院に守秘義務がございますのでお調べできませんでした。」
「それはそうよ。ご病気が辛いというよりも寂しそうにされてたの・・・気になるわ。」
「奥様を亡くされたのは随分昔ですが、その後再婚の勧めは断り続けておられたとか。」
「・・あの方の待っていらしたのは奥様のことかもしれない。きっと・・そうだ思う。」
やいとは手の中の懐中時計を見つめた。炎山はこれをお母様の形見と言っていた。
そして時計の縁に目立たなく英字が彫られているのにやいとは気付いていた。
〜 from S with love 〜
それに気付いたとき、これは炎山の母が誰かから贈られたものだと思った。
確か炎山の父の名は”秀石”だ。それでこれは彼の妻へのプレゼントだと考えた。
あの紳士が待っていた花の好きな『女』とは、きっと亡くなった奥様のことなのだ。
やいとはそう確信した。この時計を大切にしていたという炎山の母のことを想う。

”とてもお父様のこと愛しておられたんだわ・・・そしてお父様も今でも・・・”

やいとはあの紳士の寂しそうな姿と父に見せた炎山の態度を思い出すと胸が痛んだ。
もしかして炎山もその父親も自身の心痛などを人に示さない質ではないだろうか。
そのせいで誤解が生じていることもありうる。それならば・・・
やいとはこのことをどうしても彼とその父に伝えなければと思うのだった。









第10話へ続きますv^^