トロイメライ〜小さな約束〜8



”好き”という感情はやいとにとってもっと身近なものだった。
愛着などの好感や友情の連帯感など彼女の知る単語が与えるもの、
それらはいつでも自分に安らぎをもたらす温かなものだった。
彼女が新たに自覚した”好き”はそのどれにも属さない。
揺れ動く振り子のようにおよそ安定しないものであり、
苦脳の織り交ざった、波間を漂う舟の上のような感覚。
支えが欲しいと思えた。そして不安の先に見える人がある。
傍に居たい、不安なままでもいい。二人一緒なら怖くないと思えた。
あの怖ろしく長い梯子を二人で登っていったときのように。

やいとはあのホテルでの邂逅以来、ぼんやりすることが増えた。
あの日、帰宅すると例の連絡機「MP」からトロイメライのメロディが流れた。
驚いて開いてみると炎山からのメールだった。そのことをグライドに話すと、
「よろしかったですね、やいと様。炎山様と和解なさったんですね。」とグライドは言った。
やいとはその言葉に違和感を覚えたが、かといって二人はどうなったのか?
炎山と自分の気持ちは明らかになった。しかし表面的には何も変っていないと思う。
傍目には犬猿の仲と見られていたとするなら『和解』も間違いではないだろう。
自分達のような間柄をなんと表現すればいいのか、やいとにはわからなかった。


「〜〜どうしよう・・・グライド・・」
数日後、炎山のマメではあるものの、いつも素っ気ないメールを受け取ったやいとが呟いた。
「どうなさったんですか、さっきのは炎山様からですよね?」
「明後日のM邸のパーティに炎山も出席するんですって!」
「それは珍しいですね、あまり夜会には出席されない方ですのに。」
「私、炎山とパーティで逢うのって初めて。」
「あぁ、そういえば。それで・・何を困っておられるのです?」
「え、そうね? 何も困ること・・ないのよね。だけど・・・」
「炎山さまがびっくりされるくらい綺麗にして参りませんとね、やいと様?」
「なっ何言ってるのよ!私なんて着飾っても嫌味を返されるだけに決まってるわ。」
「まさかそんなことは・・」

やいとはグライドの言葉に動揺した。漠然と感じたものを浮き彫りにされたようだった。
近いうちに逢える、それは嬉しい。しかしその場所がパーティとなると・・・
やいとは夜会嫌いなのだ。理由は主に二つ。退屈であること、それと劣等感を刺激されるから。
自分自身の容姿にやいとは悩みを抱えている。そのことを思い知らされる場所だからだ。
特に身長が低いこと、童顔なこと。年頃になればどうしてもそこを気にせずにはいられない。
幼い頃でもそれはわかっていた。虚勢を張って認めないでいただけのことだ。
また容姿を褒めてくれる人は大抵なんでも褒める。要するにお世辞なのだと丸分りだ。
社交辞令は「決まり文句」と3歳から教え込まれた。だから信用できるはずもなかった。

やいとは先日炎山に逢ったとき、以前から見上げていた彼の背がまた高くなっていたことに驚いた。
その上大人っぽくなっていて、なんだか自分だけが置いてけぼりを食らったような気がした。
「炎山たらなんであんなにおっきくなっちゃったの!?もう〜・・・」
「まぁまぁ・・大丈夫ですよ、ちゃんと踊れますよ。ダンスの心配されてるんでしょう?」
やいとは目の前が暗くなった。”ダンス”決して嫌いではない。何度か経験もある、しかし・・・
炎山と踊るということをそれまで想像したことも無かったのだ。それもあったかと動揺は悪化した。

以前の待ち合わせのときも感じたが、夜会の日は悩んでいようがあっという間にやって来た。
支度だけで疲れてしまい、会場に着いたときには「やっぱり帰ろうかしら、グライド・・」と零した。
「何を今更・・・大丈夫です!とてもお綺麗ですよ、やいと様。」宥めようとグライドも努力した。
それはありがたかったが、真実とは思えない。やいとは何度目かもわからない溜息を吐くのだった。

炎山は仕事を終えた後で来るので遅れるらしい。先に到着したやいとは少しほっとした。
どうやらこの夜会に出席したのは仕事絡みらしい。自分が『ついで』だと知って寂しいものの納得もした。
夜会は大人の思惑が目的のほとんどだ。炎山の立場なら逃げ回ってばかりもいられないだろう。
堅苦しいしきたり、社交辞令だらけの会話、噂話、大人の仕事の裏事情、そしてスキャンダル・・・
いつの間にかそれらに慣れている自分自身にもうんざりした気持ちになる。そんな場所で彼に逢うのだ。
正直なところやいとは劣等感を抜きにしてもあまり嬉しいと思えなかった。

やいとは炎山を待ちながら、ふと学校で耳にした彼の噂話を思い出した。
”伊集院様はもう随分踊られてないのよ””申し込みは後を絶たないそうなのに”
きっと面倒なのだろう、とそのときもやいとにはそう思えた。なんとなく自分になぞらえて。
そんなことを考えていると、以前紹介されて顔だけは覚えている若い殿方に何度かダンスを申し込まれた。
「ごめんなさい、少し気分が優れなくて・・また今度お誘いくださいます?」
やいとは使い古されたお断りを口にして、名前を思い出せない男性たちの背を見送った。
目立つところに居るのはやめようとバルコニーに出ると満月に近い月が明るく照らしていた。
”そういえば私もずっと断ってばかりだわ・・・踊りたいと思わないから・・”
携帯やPET類は持ち込めないため、やいとは炎山がいつ頃到着するのか確かめる術がない。
”逢いたい、けど逢うのが怖い・・・どんな顔すればいいんだろ?・・・”
学校の皆が騒いでいたように、炎山はきっと女性から注目を浴びるに違いないとやいとは思う。
逢いたいから待っているというのに、来て欲しくないとも思った。惨めさを味わうからだ。
”炎山が他の女性と踊るところなんて見たくない。けど自分となんてもっと踊って欲しくない”
”・・・私なんかのどこが良いのかしら?炎山ってもしかして変ってる・・・?”
炎山に比べてあまりにも自分が惨めに思え、もう帰ってしまおうかと大きな月に無言で問いかけた。



予想以上に遅れて炎山は少し焦っていた。もうやいとはとっくに着いているはずの時間だ。
待たせたことに腹を立てているならまだいいが、他の男と楽しくやってるんじゃないだろうな、
という面白くない想像が焦りの原因になっていた。しかも仕事の予定もあるからやいとに専念できない。
いつもなら仕事だけさっさと済ませて終わり、そうでなければ出席すらしない彼であったが、
仕事を二の次と思ったのは初めてだった。招待客の中にやいとが含まれると知った、それだけで。
先日久しぶりに逢ったやいとは以前より少し違っていた。もっと幼いイメージしかなかった。
綺麗になったな、と炎山は素直に感じたのだ。長い金髪も白い肌も以前より艶を増したような気がする。
抱き寄せたときの甘い香り、今まで感じたことのなかった衝動。やいとの印象は随分上書きされてしまった。
そのせいで心配事が増えた。でなければ夜会での彼女のことなど気に留めなかったかもしれない。
会場に着くとまずは仕事を片付けた。幸い目的の人物にすぐに面会でき、予定していた話も済ませた。
急いでやいとを探そうと思ったが、思わぬことに引き留められることになった。

「うちの娘が君と会う話を聞きつけて是非踊ってもらいたいと言ってるんだが、一つ頼めるかね?」
せっかくまとまった話のことを思うと断り辛い。もちろん先方もそれを承知で無理を言っているのだ。
「それは光栄ですがその・・元々苦手で。お恥ずかしい話ですが踊れないんです正直なところ。」
「それは本当かね?!・・なら少し話をしてやってくれるかな。約束してしまったのだよ・・」

仕方なく付き合い程度の会話をし、次の仕事を理由になんとかその場を後にした。
うかうかしていると、次々と珍しい彼の出席に飛びつく噂好きの人物などにも捉まる破目に陥る。
炎山は慎重に人の波をくぐり、肝心の彼自身のお目当ての人物はどこかと探し始めた。
自分と同じく夜会嫌いならと見当を付け、足を向けた場所にぽつんと空を眺めている少女が目に入った。
後姿だから違う可能性もあると思い、いきなり声は掛けずに様子を窺った。
髪を結い上げているため、まずは白くて細い項が目を引く。肩や腕、ドレスの裾からのぞく足首が華奢である。
ぼんやりと見上げているのは、今夜出ている月だろう。バルコニーに置いた手も手袋をしていて猶小さい。
ふと視線を感じたのか、少女が振り向いた。琥珀色の大きな瞳が一層大きく見開かれた。
ほんの僅かな間だったが、炎山とやいとは距離を置いて向かい合い、見詰め合った。
すぐに声を掛けなかったのはお互いに見惚れていたのだが、当の二人はそうと気付いてはいなかった。

「・・・初めまして、だな。こんな場所では。」
「・・・そうね、熱は出なかったの。今夜は。」
炎山にはそれが名も知らずにいた頃の昔、逢えなかった夜会の約束のことだとすぐにわかった。
「熱が出て欲しかったみたいな言い方だな?気が進まなかったのか。」
「逢いたかったわ。でも・・ほんとはそう。」
やいとは大きな瞳を伏せた。長い睫の影が白い頬に落ちる。ほんのりと色づいた唇が寂しげだが美しい。
場所や姿が変っただけで見違えるということも実際にあるのだな、と炎山は実感した。
「夜会はオレも苦手なんだが・・・」
「私は昔よりもっと嫌い・・」
「じゃあ今日はどうして出席したんだ?」
「父の知己でとても私を気に入ってくださってる方がいらっしゃるの。その方にご挨拶に来たのよ。」
「へぇ・・誰だか尋ねていいか?」
「Yさんよ。もうご挨拶は済ませたけど。」
「・・・独身男性に会えと父上から?それは・・・」
「独身って!やぁね、もうお孫さんもいらっしゃるのよ、確かに奥様は亡くされたけど。」
「知ってる。確か歳は59だったはずだ。」
「よく知ってるのね。だけど年齢に何かあるの?」
「後添いを探してると聞いてる。」
「まさか!?そんなんじゃないわよ!」
「ならいいんだが・・」
「炎山だって縁談で一室埋もれるほどの申し込みがあるとか言われてるじゃない。」
「あぁ、面倒だからなんとかしたいな、あれは。」
「・・・大げさでもなかったのね。呆れた・・・」
「それで気が進まなかった原因は?」
「えっ・・えっとその・・つまらないことよ。」
「気は進まなかったがオレには逢いたいと思ってくれた訳だ。」
「そっそう・・ね、悪い!?」
「まさか。で、今日は誰かと踊ったのか?」
「え、ううん・・断ったわ。あなたは?・・お付き合いだってあるでしょう?」
「実はずっと踊れないということにしてあるんだ。」
「知ってる。それってもしかして口実?」
「当りだ。けど実際長いこと踊ってないから自信はない。だから教えてもらえないか?」
「私に言ってるの!?」
「もし誰かに見られたら教えてやってたと言っといてくれ。」
「私・・身長が・・それだけじゃないけど・・あなたとじゃ釣り合わないわ・・」
「?・・何か問題があるのか?よくわからないが。」
「おっお世辞は言わなくていいですからね!それに、私と踊ったりしてホントにいいの!?」
「おまえ以外なら頼んだりしない。踊りたいなんて思ったのは初めてだ。」
「それって・・・その・・私となら踊りたいって・・ことかしら・・」
「そうですよレディ。恥を忍んでお願いしてるんですが?」
「まっまたっそういう気障なことを・・・あのねぇ・・教えるって言っても・・」

おあつらえ向きに会場からワルツの楽曲が流れ、炎山から手が差し伸べられた。
おそるおそるその手に自分の手を置くと、彼に腰が引き寄せられる。彼らしい少し強引なリードだ。

「じゃあ、初心者扱いでよろしく。」
「こ、こちらこそ・・;」

やいとはあんなに憂鬱だった気持ちが、炎山の手を取った途端、綺麗に消え去ったのを感じた。
今は二人で踊れることの嬉しさで劣等感も何もかもがどうでもいいことのように思える。
久しぶりのダンスは楽しいものだった。そしてそれはお互いに感じているということが伝わってくる。

「あなた、ちっとも下手じゃないじゃない・・!」
「合格点もらえるのか?そりゃよかった。」
「私小さくて踊りにくいでしょ?ごめんなさい。」
「いつもより高い踵の靴のおかげでそうでもない。」
「でも炎山・・お願いだからもうこれ以上高くならないでね!」
「!?・・・どう努力すればいいんだ、それは・・」

可笑しそうに微笑む炎山に吊られて知らないうちにやいとも微笑んでいた。
間近でその琥珀色の瞳が自分に向けられて輝く様子に炎山も充足感を味わった。

「実は他の男と踊ってるんじゃないかと気が気じゃなかった。」
「なっ!?そんなこと・・私はあなたほどモテませんからご心配なく。」
「だといいが・・」
「当たり前でしょ、私美人でもないし。そんなこと心配するなんて炎山って変ってるわ!」
「意外に無自覚なんだな。」
「何がよ!?」
「・・いや、なんでもない。」

炎山は自覚のないままの方がいいかと咄嗟に誤魔化した。この無防備な瞳を独占したい気持ちに駆られて。
曲が終わっても自然と繋いだままの手にも気付かずにやいとは炎山に思い切って尋ねてみた。

「あのね・・私たちって『仲直り』した幼馴染って感じなのかしら?」
「・・? まぁ・・そういう見方もあるかもしれないが・・・」
「・・・その・・私たちのことグライドに聞かれて説明に困ったの。」
「そうだな、幼馴染でも構わないが・・今は『恋人候補』ということでいいんじゃないか?」
「こっ!?こっ・・・そっそんな;えっと・・・あの・・その・・」
「何か不都合なら適当に言っておけばいい。俺は構わないから気にするな。」
「〜〜〜〜;そ、そう・・・なの?」

やいとはそこで大きな問題を自覚した。自分の気持ちを炎山に伝えていないということに気付いたのだ。
全身から汗が出そうだった。踊ったせいで熱いのだと思い込もうとしても頬の紅潮を抑え切れない。
両手で頬を押さえて赤くなっているやいとに不思議そうに炎山は尋ねた。
「どうしたんだ急に?!」
「ごっごめんなさい。その緊張というか・・私、あなたに・・言わなきゃならないことが・・」
「・・・急ぎなのか?」
「それがその・・どう言えばいいのか、ちっとも考えて無くって・・」
「じゃあいつでもメールしてくれれば・・」
「ダメっ!メールなんてダメよ。あぁでも・・・!?」
「よくわからんが・・今じゃなくてもいいならまずは落ち着け。そんなだと俺が困る。」
「ごめんなさい・・・私・・あなたがこんな私のどこがいいのかさっぱりわからないわ。」
「相変わらず忙しい奴だな、赤くなったり沈んだり・・・まぁそういうところも興味深い。」
「それって私がヘンだから面白いとか、そういう意味!?」
「ぷっ・・そうだな。それも含まれるが・・勿論それだけじゃないぞ。」
「ふぅん・・あなたなら他にどんな素適なひとだって・・見つかりそうなものだけど・・」
「そう思ってくれるんなら、もう少し自信を持っていいんじゃないのか?」
「・・・私・・・自信なんてちっとも持ってない・・どうすればいいの?」
「この俺をこんなに誘惑しておいて?」
「ゆ!?もうっ!私そんなことしてないってば・・」

いつの間にか目の前にある炎山の瞳に吸い込まれ、やいとは言葉も思考も失いただ見つめ返した。









第9話へ続きますv^^