トロイメライ〜小さな約束〜7



閉じ込められたエレベータの中で二人は向かい合っていた。
炎山から落とされた言葉の衝撃が現実の状況に対するそれを上回り、
「もう一度」の意味までも理解するには到底至らなかった。
混乱してやいとは知らぬ間に炎山の腕に縋りながら彼を見上げていた。

「・・どういう・・・何言ってるのかよく・・わかんない・・」
「・・どうもおまえ相手だと俺は調子が狂う・・・」

炎山は幼い頃からいついかなる場合も冷静であるようにと厳しく要求されてきた。
このような事故の際も慌てることもなく、次の行動への対処法を考えることができる。
ましてや今回は以前ほど悪い状況でもない。にも関わらず彼は途惑いを感じていた。
彼にとっては初めての体験だった。身体が今の状況にそぐわない欲求を彼に覚えさせていた。
縋るやいとの手が愛しくて、自分に向けられる想いを確かめたくて堪らないと感じる。
こういった状況に陥ることがそんな効果をもたらすこともあるのだと妙な感心すら覚えた。
薄暗がりの中、柔らかな少女の身体が自身に寄り添っている、ただそれだけのことなのに。
誰に対してもそんな風に感じることはないのだろうとは判断できる。この少女だからなのだ。
しかし努めて冷静であろうと努力はした。やいとをこれ以上怯えさせたくはない。
自身の動揺を悟られないようにとこっそりと息を整えた。しかしそれは初めての抗い難い誘惑だった。
炎山はやいとの華奢な身体ごと包み込んで、口付けたい衝動に駆られていたのだ。

「約束って・・私あなたと・・そうだ、もっと一緒に居たいと思ってあのとき・・」
「俺も離れ難かったが・・昔の俺は物分りが良かったんでね・・・諦めていた。」
「あのときの炎山は優しくて・・今はどうしてかしら・・なんだか落ち着かなくなるの・・」

暗がりで自分の腕に知らず縋りながら、ぽつりぽつりとやいとが素直な心を零す。
”落ち着かないのは俺もそうだ”とは言えなかった。ともすれば抱きしめてしまいそうになる。
話題を変えてしまいたかったが、素直な心情を聞きたい気持ちが上回り、止められなかった。

「私あなたのことはずっと嫌いって思ってた・・・」
「・・・今も?」
「違う・・みたいなんだけど・・どきどきしてわからなくなるの・・」
「わからない・・のか、ほんとうに・・」
「だって苦しくて・・ねぇ炎山・・私のこと変な子だと思う?嫌いになっ・・」

理性なんてものは、こんなとき役に立たないということを炎山は認識した。
そんな経験も初めてのことだった。身体が頭の命令を無視して勝手に動くなどということは。
実行に移しはしたが、どうやって抱いたのかも唇に触れたかもわからないほどの唐突さだった。
炎山は柔らかさと震えと共に、少女の身体からダイレクトに色んな情報が伝わってくるのを感じた。
それらが全て快感となって一層引き寄せたい衝動へと繋がる。愛しさに流されて我を忘れていた。
自分が夢中になっていることにすら気付かないままだったが、やがて少女の僅かな抵抗を自覚した。
名残惜しむようにゆっくりと唇を離す間もずっとやいとを見つめたまま、抱いた腕は緩めなかった。
呆然とした表情が彼の目に飛び込んだ。その時エレベータ内の照明が点り、事故が復旧したことを告げた。
再始動の衝撃で、まだ触れたままだった彼の腕も解かれた。やいとはまだ呆然としたままだ。
そして停止前に炎山が適当に押したボタンの階にエレベータは静かに停止し、やがて開いた。

数人のホテル客が乗り込もうとするのを見て、慌てて炎山はやいとの手を取って箱から降りた。
勢いで炎山の胸にもたれかかったやいとはまだぼうっとして足元に力が入らない様子だ。

「すまん・・その・・」と謝罪を口にしかけた炎山を見上げる顔は夢でも見ているようだ。
「・・?」彼がどうしたのかと不思議そうに顔を覗きこむとやいとの顔が一瞬で真っ赤に染まった。

「バカァッ・・!」

やいとは思い切り叫んだつもりだった。しかし哀れにも力の抜けた声にしかなっていない。
急いで突っぱねたつもりの手もよろめいたので再び彼の胸元に戻ってしまい、焦っている。

「大丈夫か?!」
「う・・」

目の前でやいとは顔を覆って泣き出した。まるであの頃のように俯いて子供のように。
そんなやいとの姿に彼らとすれ違う幾人かの視線が炎山に冷たく突き刺さった。
再びエレベータのボタンを押してえんえんと泣くやいとを庇うように次の箱が来るのを待った。
やがて止まったそれに乗り込むと、最上階にある伊集院専用の部屋まで連れて行った。
そこは仮眠を取ったりするためのもので、伊集院のプライベート用にキープしてある一室だった。

部屋に連れ込まれても気付いていないやいとに溜息を吐きながら、炎山は思った。
”まさかこんなときに使うとは予想外だった・・・しかしこれは拙かったか?”
人目を気にしたとはいえ、いささか判断ミスをしたかと炎山は思った。
そんな炎山の心中を他所にやいとは泣き続けている。彼にとってはこちらの方が重要だった。
とりあえず椅子に座らせ、急ぎ湯を沸かして飲み物を用意すると彼女の元へ戻った。
戻ってみるとようやく落ち着いたらしいやいとがぼんやりと部屋の様子を眺めていた。

「・・生憎ここにはコーヒーしかないんだが、飲むか?」
「ここ、どうして?部屋・・とってあったの?」
「まぁそうだ。いつでも使えるようになってる伊集院のものだから。俺はめったに使わないがな。」
「・・ふうん・・私いつの間に入ったか覚えてない・・・」
「こんなこと言うのもなんだが・・・おまえはやっぱり放って置けないぞ、危なくて・・」

こんな状況にあるとわかっても何の警戒心も抱かないやいとに対する炎山の正直な感想だった。
その反面、好きになった少女が、自分を信頼してくれてもいるのだと考えると単純に嬉しかった。

「あっ危ないのはあなたじゃない!いっいきなり・・・あんな・・・」
「すまん・・・それは俺が悪かった。」
「ひとが一生懸命話してるときに・・・・ちっとも聞いてなかったんじゃない!?」
「聞いてたさ。だからもどかしく感じたというか・・」
「余計にわかんなくなったじゃないのよぅ・・・・!」

やいとがまた泣き出しそうになったので炎山はこの延々と続くループに嘆かずにいられない。
愚痴を零すような習慣のない彼の口から「そんなに子供みたいに泣くな・・」とつい出てしまった。
口に出してから”しまった”と思ったが、案の定やいとは気を悪くしてしまったらしい。

「子供っぽくて悪かったわね!?やっぱり私のことそんな風に見てるんだわ!私そんなに子供じゃないもん!!」

”どの辺が・・?!”と心の底から思ったが、炎山はなんとかそれは口に出さずに飲み込むことに成功した。
そしてこの分だとさっき思わずしてしまった行動もちゃんとわかっているのかどうかと疑わしくなった。
しかし自分もやいとを笑えない。さきほどの失態を思い出し、炎山は反省し考えを改めた。
”俺は時間がないと焦っていたかもしれない・・・このことはもっと時間を掛けるべきだ”と。
コーヒーを苦いと文句を付けながらも飲み干す様子に”それでも少し元気になった”と感じてほっとした。

「砂糖は置いてなくてな・・すまん。」
「・・・ごめんなさい・・私・・やっぱり少し子供っぽいわね・・・」
「いや、俺が悪かった。赦してもらえるのか・・?」
「・・・・炎山・・・・」

炎山は期待した。それは仕方のないことだろう。彼もやいとを想う故にしたことだったから。
しかし、やいとの答えは予想を大きく外れないものの、彼の期待に添えるには一歩足りなかった。

「どうしてあんなことしたか今度教えてくれたら赦してあげる。」
「まるで犯罪者扱いだな・・・おまえに誘惑されたとするなら俺も被害者だぞ?」
「ゆ、誘惑って何!?そんなことしてないもの。何よ、嫌いじゃないかもと思えてたのに・・」
「・・・だと良いが・・」

彼は一種の諦めと共にそう呟いた。それでも以前に比べたらかなり前進したのかもしれない。

「言っておくがこれからもおまえのことは放っておかないからな?」
「・・・ねぇ・・・炎山?」
「なんだ?」
「思い出したわ、私あなたのお・・お嫁さんになるって・・・言ったんだわ。」
「あぁ、そっちか。忙しいなあれこれと。」
「もう一度っていうのは・・・私と・・その・・・そういう約束を?」
「そういうことだ。今頃わかったのか。」
「あ・あ・・・そう!・・・なの?やっぱり・・・」
「それはもういい。時効だろ?」
「それがその・・・そんなに嫌じゃないんだけど・・これってやっぱり変かしら?」
「俺はそれほど嫌われてない、と思っていいんだな?」
「でも今だって憎たらしいと思うのよね・・・私って矛盾してる・・」
「気長にいく。憎らしくて結構。」
「・・・炎山・・・」
「まだ何かあるのか?」
「やっぱりさっきの・・・連絡用・・もらってもいい?」

炎山はポケットからそれを取り出すとポンとその専用機器を放り投げ、やいとは受け止めた。

「遠慮するな。逢いたいときに行ってやる。」
「・・・ありがとう・・」
「難しいな、女ってのは・・・」
「?・・・何よ、ややこしいのはそっちじゃない!」
「俺はいたってシンプルだ。おまえだろ、よくわからないのは。」
「なんなのよ、そういう決め付けた言い方が気に入らないのよ!」
「おまえの思うような男でなくて悪かったな。それでもおまえのことが好きだ。それは忘れるなよ!」
「すっ・・!?////////////」

「・・どうした?急に黙って。」
「炎山は・・・私のこと・・」
「好きだ。わからない方がどうかしてるぞ。何度も言わせるな。」
「・・・どうかしてる・・みたい・・私やっぱり・・」

炎山のヤケになったような告白にやいとはまた顔全体を赤く染めて俯いてしまった。
もしかしてそんなことも気付いていなかったのかと炎山はまた驚かされた。
真っ赤に俯くやいとは暗がりで見るよりもはっきりと可愛らしさを彼に伝える。
端末機器を手にもじもじとしているやいとのすぐ傍のベッドが目に入り、彼は慌てて立ち上がった。

「俺はもう時間切れだ。おまえはどうする?・・もう少し休んでいくなら・・」
「え!?私も帰るわ。今何時かしら?あ、コレ時計もついてるのね。」
「ならさっさとここを出るぞ。それからここへ連れ込まれたとか家のものに言うなよ?」
「?・・・ウン。でもどうして?」
「余計なこと勘繰られる。濡れ衣は着せられたくないからな。」
「時々・・あなたの言ってる意味がわかんない・・?」
「ったく・・さっさとしないとまた襲うぞ!?」
「えっ!?」

慌てるやいとから目を反らすように立ち上がり、炎山は部屋を出ようとドアに向かった。
急いで後を追いかけるやいとの靴音に思わず振り返る。少し名残惜しい気持ちが過ぎり振り返る。

「待ってよ!あ、そうだ。ハンカチ借りておくわね?洗濯しなきゃ。」
「あぁ、そんなもの別にいい。・・おまえあまり人前で泣くなよ?」
「う、ウン・・泣かないわよ。わ、私も炎山の前だと・・・調子狂うのよ。」
「・・・ならいい。」

炎山からやいとに右腕が伸ばされた。やいとはぼんやりとそれを目で追った。
じっと顔を見つめる炎山にやいとは不思議とさっきのような怖さを感じなかった。
もしかしたらと思いながら動かずにいると、そうっとおでこに炎山の唇が触れる。
”さっきと全然違う”やいとは不思議だった。同じひとなのに・・どうして・・?
驚きで見開いていた先ほどのキスと違い、今度は自然と目を閉じていた。それも不思議でならない。
目を開けると炎山はふっと視線を外して前を向いてドアを開けた。思い違いだろうか、とやいとは思う。
”広い背中・・”見つめる目の前の人は昔と違ってとても”男の人”と感じられる。
でも怖かったエレベータの中の人も今とても大切そうに自分の額に触れた人も同じ人なのだ。

”私のことを・・・好きなんですって・・・”
”だから放っておかないって・・・キスして・・”

やいとはふわりと心が身体から離れて飛び立ってしまったかのような感覚がした。
まるで風船みたいに抑えておかないと空高く離れていってしまいそうな気がする。

”どうしよう今わかった・・・私あなたのこと・・・”
”ずっと・・・ずうっと・・・好きだったんだわ・・・!”









第8話へ続きますv^^