トロイメライ〜小さな約束〜4



手離してしまった懐中時計のことは誰も知らない。父でさえ。
元々あれは父から母への贈り物だったそうだから、咎められたかもしれない。
しかし父がそんな贈り物をしたことすら覚えているかどうか疑わしい。
それくらい昔の話だと母は笑ってそう語っていたからだ。
「寂しくない?」と子供心に心配で尋ねた。残酷な問い掛けに、
母は「炎山がいるから寂しいことなんかないわ」と言って微笑んだ。
嘘ではないだろう。それでもその答えに今でも母の寂しさを感じるのだ。

父と母がどのような経緯で結ばれたのかと疑問を持ったことがある。
調べても明確なことはわからなかった。当時を知る者も居なかった。
「お母さまはお父さまのことが好き?」
「もちろんよ、炎山。」
とても優しい母だった。対照的に父に優しさを感じることはなかった。
病気になった母のところにほとんど見舞いにも来なかった。
「いいのよ、こんな元気のない顔見られたくないもの。」
父の気持ちがわからなかった。もし母を想うなら元気付けたいと思わないのだろうかと。

茂みに隠れるように泣いていたあの子。
まだ幼い少女だったが、母親のことを思い出させた。
なんとか元気付けてあげられないかと色々話しかけた。
大人たちとの会話と違ってとても難しいと思った。
だから泣き止んで笑顔を見せてくれたとき、とても嬉しかった。
自分も元気が出たようだった。本当に良かったと安堵した。
すっかり打ち解けた少女はよく見ると可愛らしく、秀でた額が賢そうだった。
長い髪をおさげにしていた。病床の母がそんな風だったので思い出したのかもしれない。
引き離された後に素性を知り、”またか・・・”と思った。
父や周囲から、望むことは尽く覆されていった記憶が蘇る。
それは子供の頃作った折り紙のような小さなものから、母への想いなど様々だ。
友達になりたい子たちとは遊ばせて貰えず、母のことも口には出さないよう命じられた。
したいと思うことは必ずと言っていいほど反対され、禁止されたりすり替えられた。
隠れてすることを覚えるようになったから、父の教育はあまり褒められないと思う。
それでも大半は我慢の連続で思うようになることはあまりにも少なかった。

「あれは”綾小路やいと様”だそうです。」ブルースの報告は簡潔だった。
家同士の確執など珍しいことではないが、意外に歴史が旧く伝統のようになっていた。
この件に関しては隠れてどうこうすることは不可能だった。お手上げ状態である。
”先祖代々伊集院に楯突き、三流会社などで今も対抗してくる目障りな”綾小路家、
そんな風に刷り込まれ、反発心もどこへやら、数年後にはすっかり諦めの境地だった。
それで俺は本音を隠す習性を身に着けたのかもしれない。心の中なら自由だと思ったのだ。
お別れを言いに行って良かったと胸を撫で下ろした。もうあの子とは逢えないのだ。
境遇の似た少女が少しでも寂しいときをあの時計で慰められますようにと胸の内で祈った。
そんな俺も数年の間に昔を思い出すことはほとんどなくなってしまった。
「I.P.C.」の副社長に就任し、ネット警察にも籍を置いたため兼任で多忙を極めたためだ。
ネットセイバーの仕事は危険もあり、父はあまり良い顔はしなかったが仕事の開発の為と嘯いた。
コンピュータのハード機器開発が会社の看板であったが、俺にはネット警察の方が性に合っていた。
遣り甲斐はあったが何しろ忙しかった。毎日があっという間に過ぎていった。
そんな折、「綾小路」の名を久しぶりに耳にした。新製品宣伝のためのイベントだったと思う。

「あぁ、あの三流会社のね・・」

自然と口から出た言葉は、あまり好印象は与えなかったと思う。
あの頃の自分はかなりふてぶてしい態度だった。何しろネット犯罪は後を絶たず、
ついついオーバーワークになって疲労快復に苦労していたせいもあるだろう。
数年ぶりに再会した少女は勝気で生意気な口を利き、態度も大きくわがままそうだった。
面影はあるにはあったが、イメージの違いからかまるで別人のように思えた。

「どこかでお会いしたかと思ったけど、気のせいねっ!」

意志の強そうな眼をして、きっぱりとそう言い捨てた。もう覚えていないのだろう。
月日が経ったのだからそれも仕方ないと思った。あの時代に戻りたいとも思えない。
それからたまに顔を遭わせても碌な会話もせず『不仲』を絵に描いたような二人。
家同士のごたごたなんてものは、大抵「こんなもの」なのだろうと思った。
成り行きに任せて昔から仲たがいしているが、おそらく深い意味はないのだ。
だからといって家同士の因縁をどうこうしようとは思わなかった。関係ないと放っていた。
あの頃の少女はもう居ないのだし、慰めが要らないほど元気ならそれでいいと思った。

N−1グランプリ試合参加のために停止したエレベータから脱出したあの日。
あのときに俺は素直な頃の彼女と再び出逢った。それまでの印象が覆ってしまった。
長い梯子の途中で怖くて泣き出した彼女を見たとき、寂しがって泣いていた昔を思い出した。
”ああ、変ってはいないんだな”と、そのときそう感じたのだ。
覗き込んだ瞳はあの頃のように澄んでいて、「行くぞ。」と促した後の素直な態度に心が和んだ。
一緒に昇ってやったことで試合には遅れそうになったが、彼女が車の手配をしてくれて助かった。
機転に救われた礼の意味も含めてメールを送った。返事はかなり遅れてやってきた。

『大きなお世話よ!><失礼ね!?・・でも今日はどうもありがとう。』

顔を思い浮かべて珍しく俺は笑った。違っていると思い込んでいたがそれは成長したからで、
素顔の彼女はあの頃と変らないのだと確信すると、それが何故だか無性に嬉しかった。
気の強そうに見えるところも態とそうしているのかもしれないと思うと健気にさえ感じられた。
互いの態度もあれを境に変ったように思う。ネット犯罪のトラブルから救ったことも幾度かある。
彼女はそんなこともあったせいで、俺に対する敵意を好意に変えていったようだった。
俺はというと、警察の仕事などしていたからトラブルに巻き込まれた彼女を見過ごせないのだと思った。
確かに以前より気になることは事実だったが、俺もそれは『好意』に過ぎないと思っていた。
幼い頃に形見を預けたことを覚えていながら、交わした”約束”の記憶は埋もれていた。

それから何度か逢うごとにまた次も逢いたいと思うようになった。それが不思議だった。
また困ったり泣いたりしていないかと気に掛かる。自分でも気にしすぎだと思えるほど。
それは俺が彼女に対して抱いていた感情がもう一つ追加されていると気付いていなかったからだ。
それを自覚したのはあの昔の思い出がきっかけだった。忘れていた記憶もそのとき手繰り寄せられた。


とあるホテルに社用で赴いた際に、偶然彼女とそこのロビーで出逢った。
姿を見とめたとき『トロイメライ』がその場に流れて思わず足を止めた。
同じロビーに居た親子が眼に入る。贈り物か何かのオルゴールがその音源だった。
その曲に彼女が同じように反応を示していることにすぐに気付いた。
そういえば今でもあの時計を持っていてくれるのだろうかとふと確かめたくなった。
彼女はあまりに幼かったからどうだろうと、俺は通り過ぎる間際に一言だけ尋ねてみた。

「あの曲に思い出があるのか?」
「!?」

俺に気付いていなかったらしく、飛び上がるほど驚いていた。

「なっ何よいきなり!?・・アンタに関係ないでしょ!?」

顔を赤くして偶然の出逢いに焦っているようだった。結局答えは得られなかった。
アポイントが控えていたためにすぐにその場を後にしたからだ。

あの曲を忘れないでいるということは、今でも寂しい想いをしているのだろうか?
そんな風に思うと、元気に見えても安心していられないな、などと移動中資料を手にしながら俺は考えた。
逢いたいときに逢えない寂しさを俺は良く知っている。母の姿が記憶から呼び起こされる。
口では寂しくないと言っていたが、歳をとるほどにそれは事実ではなかったのだとわかった。
何故なら、あの懐中時計をこっそりと聞いている姿を何度も目にしたことがあるからだ。
母は涙こそ零してはいなかったが、その表情が語っていたのだ、”逢いたい”と。いつも居ない父に。
あんな寂しい想いをアイツにはさせたくない、そう思い至ったとき、あることに気付いて驚いた。

”・・俺はアイツのことを・・・”

『トロイメライ』があの頃へと俺を誘う。”また逢おう”という願いはいつの間にか果たされた。
だがもう一つの約束があっただろう?そういえば俺も忘れていた、しかし確かにそんな約束をした。
俺は首を振った。やはりあれは昔のこと。思い出さなくても良い。今は昔とは違うのだから。
しかし昔と違って今なら願いは自分の手でかなえることが出来る。
新たな約束をオマエと交わすことも出来るだろう。”もう寂しい想いをさせない”と。
ただしこれは・・・オマエが俺と同じように想っていてくれればの話だがな・・・?
”さて、どうする炎山?” ”あの子が好きなら迷うことないだろ?”
気持ちを切り替えて仕事へ戻ったつもりだったが、「何か良いことでも?」と言われた。
俺もまだまだだな・・と苦笑を禁じえなかった。









第5話へ続きますv^^