調音 



りんが主を見舞いに飛び出してから随分経つ。
邪見や朝香は心配していたが夕餉の時刻になっても戻らなかった。
このことを知る者たちに口外を禁じて持ち場に戻らせたが、
邪見だけはそれどころでないと主を訪ねる、と思いつめていた。
ところがそう決意し、朝香に止められている頃、主が部屋から現れた。
主はりんが眠ってしまったことを告げ、朝までそのままにすると言った。
「具合はいかがです」聞かれて自身は大事ないと答えた後、
りんの方をを翌日典医に診てもらうと言い出して二人を驚かせた。
「いかがいたしました?」朝香が探るように問うと
主はすぐに返答しなかったのだが朝香はそれ以上追及せずに
「承知しました」とだけ答えた。
邪見が心配そうしているのを見て「案ずるな。今はよく眠っている」と声をかけた。
「そ、そうですか」邪見はそれ以上は聞けなかった。
すぐにお館さまがお休みになられるお部屋を用意いたしますと朝香は言ったが
朝までりんの傍にいるから不要と告げて殺生丸は戻っていった。
後に残された邪見と朝香は複雑な面持ちで顔を見合わせたが
「まあ、りんさまなら大丈夫でしょう、お館さまのご様子も穏やかでしたし」
「明日、お部屋の方へ朝餉をお持ちいたしましょう」朝香はもう落ち着いていた。
「う、うむ。そのお、様子をよう見てやってくれ」邪見は少し寂しそうに言った。



部屋に戻ってりんの寝顔を確かめると出たときと変らず安らかな寝顔に安心する。
傍に腰掛けそっとその顔にかかる髪のひと房を除けてやった。
殺生丸はりんを前にこうまで穏やかでいられる自分に驚いていた。
今でもりんの匂いが鼻腔を擽り、誘われるままにその身を引き寄せたい。
その一方で己にすべて預けて契りを交わそうとしてくれたりんのことを想うと
感謝と懺悔に似たものが己に押し寄せ胸を熱くする。
結局最後まで想いを遂げずりんを離したことを後悔などしていなかった。
”どんなに汚そうとしても美しく穢れないのだな、おまえは”
”どこまでこのわたしを弄ぶつもりか”そんなことを想いながらりんを見つめ続けた。
「う、ん・・・せっしょうまるさま・・・」りんが寝言でその名を呼んだ。
眩暈とともに押し寄せる愛しい想いにふらふらと顔を覗き込み”りん”と声に出さずに呼んでみた。
うっすらと微笑みを浮かべりんが手を伸ばした。
その小さな手をそっと握り唇を寄せる。
りんはぎゅっと握り返して身体を殺生丸の方へ寝返らせた。
ゆっくりと黒く彼を悩ませてやまない瞳が開いていく。
りんはうっとりと眼で返事をするように瞬きした。
眼が覚めたのかりんは一瞬はっとするとここはどこかと辺りを眺めた。
「まだ早い。眠れ」優しい声にここがどこだか理解して頬を染めた。
「殺生丸さまは眠らないの?」りんが囁くほど小さな声で尋ねた。
「ここに居るから休んでいろ」と握った手に力を込めりんの額に口付けした。
「・・・眼がさめちゃった」にこりと少しも変わりない無邪気な表情でりんが笑う。
眠る前の出来事が夢であったのかと思わせるほどりんは変らぬ笑顔であった。
わたしにすがり好きだと言ったのはこの娘ではなかったのか、この指先を食い込ませ
甘く切ない声で鳴いたのは誰だったのかと殺生丸は確かめたくなった。
「では、もう一度泣きたいか」と言ってみた。
りんはびっくりして眼を見開き紅く紅く身体中を染め上げた。
「あ、あの、あの」りんはしどろもどろで返事に窮してしまった。
堪らずりんを抱き寄せてしまい「遠慮するな」と耳元で囁いた。
「ちがっ、殺生丸さま、待って」りんは慌てて身をよじった。
からかわれていることに気づいてりんは紅くした頬を膨らませた。
「酷い、殺生丸さま」りんが甘えるように顔を殺生丸の胸に隠すように埋めると
つい腰を強く抱いてしまいりんが小さく「痛っ」と悲鳴をあげた。
慌てて腕を緩めると「すまぬ」と謝る殺生丸にりんは驚いて
「殺生丸さま、謝らないで」と顔をしかめて言う。
「なぜだ」とりんを見つめるとまた紅くなりながら
「だって、悪い事してないでしょ、変だよ」と言った。
「・・・辛かったのではないのか」りんに苦痛をあじあわせたことを
彼が気に病んでいるとりんにはわかった。
首を横に振りながら、「殺生丸さまも辛かったでしょう、あいこだよ」と言った。
その澄んで迷いのないりんの言葉に殺生丸は打たれた。
「・・・そうか」としか言えなかった。言葉が見つからない。
ただこのりんという女に己はどうしてもかなわないのだと認識させられていた。
ずっとこのままかなわなくていいとりんに暖かい口付けをすると
りんはこの上ないほど満ち足りた笑顔で見つめ返した。
苦しみは続けどもりんは私を苦しめると同時にこの上ない幸福で己を満たすだろう
そんなことを考えながら穏やかな朝がやってくるのを予感した。
なにもかもりんが奏でてくれる、悦びのうたを
辛さも哀しみも美しい調べに変える、そんな力を持っている
離さないと想っていた、だが離れられぬのだどうあっても
二人の想いは溶け合いもうなんとしても引き離すことはできないと
りんの笑顔の向こうから差し込む朝の光を誰よりも早く感じ取りながら
二人はいつまでも飽きることなく見つめあい、微笑み抱きあっていた。